生きられた建築

 一年以上ぶりの更新。人生生きていく上で、何かモヤモヤしたものがある時に、自分の考えの整理として、このblogに戻ってきている気がする。これからの時代の建築に必要なものはなんだろうか。ずっと前からそんなことを考えていた。

 僕が生きていく上で指針としている言葉にこんな文言がある。「蔵の財より身の財すぐれたり、身の財より心の財一番なり。」この言葉は人間が生きていく上での人生の目的を的確に捉えている言葉だ。「蔵の財」は財産や地位や名誉を示しており、「身の財」は体の健康をいう。いくら財産や地位や名誉があっても、体が健康でなくてはなんの意味もないし、「心の財一番なり」というように極端な話、体が健康でない状態でも、どんな困難も乗り越えられる心、人のために使命を果たす心、人のことを思いやれる心を持つことができれば、それが本当の幸福であるということである。これを「絶対的幸福」といい、「蔵の財」を大事にすることに見出す幸福を「相対的幸福」という。ただ勘違いしてはいけないのは、「蔵の財」を求めてはいけないというわけではない。目標にすることは良いがあくまで生きる目的にしてはいけないということだ。目標と目的は違う。例えば、高校球児が甲子園を目標にするその目的は、みんなでひとつの目標に向かって頑張ることの大切さ等を学ぶことにあるといったことだ。しかし、人々は「相対的幸福」を目的に生きがちだ。「心の財」を表すこんなエピソードがある。ある小学生は肢体不自由で片腕がない。周りからは手無し人間と言われた。その子は母親に言った。「僕を産んでくれてありがとう。僕は片腕がないけれど、これは個性なんだ。走りが速かったり、遅かったりするのと一緒だ。僕には僕にしかできない使命がある。」と。普通ならみんなと違う僕はなぜ生まれてきたんだろうと思ってしまうかもしれない。けど使命と捉えることができるその心こそ絶対的幸福である。僕はこの考え方を近年の社会の流れにも当てはまっているように思う。「蔵の財」はバブル時代を示し、まさに地位や名誉、財産といったものが一番とされていた時代のような気がする。あのころの建築も他との差異をつけるが如く、装飾だらけの非常に醜いものばかりだった。そしてバブルが崩壊し、環境問題が叫ばれるようになった。これは「身の財」に当てはまるだろう。この流れでいくと次の時代には「心の財」、心の大切さがテーマとなる時代が必ず来るだろうと考えていた。そんな中、3.11の大震災が起こった。訪れた悲劇。しかし、震災が起きてからの時代の変化を見ていると、これを期になにかしら社会は少なからず心の大切さに気づき始めたような気がした。人間は根源的には、人の為に役に立つことや、困難を乗り越えることに幸福を感じるようにできており、それを表現する場所がなかっただけに過ぎない。

 この世の中の事象は空間に表れるものと心の内面に表れるものとの二面性に分けることができる。それはカントが言うような「空間化された◯◯」と表現されるものと、ベルクソンのいうような「生きられた◯◯」と表現されるものである。過去に哲学はこの二つに視点から常に語られてきたように思う。「時間」という言葉の定義を考えてみよう。時計のように、針の空間的動きによって示された時間を「空間化された時間」という。この時間は絶えず一定のリズムを刻み、周りの状況に影響されない。方や、楽しいことしている時間は早く感じたり、嫌なことをしている時間は遅く感じたり、心の中に感じる時間の長さを「生きられた時間」という。これは状況によって感じる長さが変わってくる。近年ではこの両面性をもって「時間」と定義された。科学と宗教もこの二面性に分けられるのではないだろうか。科学は空間化された○○に代表され、宗教は生きられた○○に代表される。科学も宗教も、元は人間の幸福という同じ目的のために生まれたものである。科学のいう幸福とは利便性への追求であり、空間化された事物として出てくるものである。宗教は、心の内面の幸福感への追求であり、生きられたものとして内面に表れるものである。学問もこの二面性に分けられるのではないだろうか。物理学や生物学、化学や医学といった学問は空間に現れる事象として捉えられ、哲学や心理学、倫理や音楽までも心に影響される学問だ。両者は例えるなら、車の両輪のようなもので両方大切なものである。心の内面に表れる事象は仏教の言葉で「一念三千」という言葉がある。刹那の間に人間の心は三千もの心の移ろいがあるという概念である。非常に高度な概念で難しく、かたや空間に表れる事象は因果関係がはっきりしていてわかりやすい。それゆえ、「心の財一番なり」というように心の内面に表れるものも大切な概念であるにも関わらず、人々は科学の発展に力をいれた。心の発展もままならぬまま、発展した科学により、人間は戦争という悲劇を生み出し、幸福の為にやってきた科学の追究が、不幸という惨事を招いてしまったのである。

そんな「心の財」。思いやりや、助け合いの豊かな心を育む為の建築っていったいどんな建築だろうか。映画や音楽や小説というのは、直接的に人を感動させたり、悲しませたり、喜ばせたりすることができる。それらのツールを通してがんばろうという気持ちになったことがある人は少なくないはずだ。しかし、建築でそのように人の心の内面に直接的に語りかけることなどできるのだろうか。建築とは単に人々の中に異物を挿入しているだけなのではないのだろうか。施主の機能主義的要望と、法律と、上の代が作り上げた形式にがんじがらめになりながら設計をしてしまっている自分に嫌気がさし、本当は建築が持つ可能性なんてそんなにないんじゃないんだろうかとまで考えてしまっていた。そんな時にリハビリテーション病院の設計の話をいただいた。真に患者のための病院とは。人の心を育むきっかけとなる建築に挑戦しようと思った。

 建築見学会でフィンランドに行った時に、フィンランドは自殺率がNo1だという話を聞いた。緯度が高いため、冬場の日没の時間が早く、日の出の時間が遅い。暗闇がもたらす弊害だ。直接的ではないにしろ空間が人々に与える影響は大きいことを物語っていることに気づいた。そんなことを思っていると、仏教の概念に「三世間」という概念があることを思い出した。十界×十界×十如是×三世間=一念三千を示す概念のうちの三世間である。三世間とは「衆生世間」「国土世間」「五陰世間」を示す。「衆生世間」は人々を指し、「国土世間」は大地や自然、物体などその国土を示し、「五陰世間」は人間の五感を示す。五感を用いて人間や、国土に生命を感じるという概念だ。だから人はただの物である仏像に生命を感じ拝み、ゲニウスロキのように場所の精霊を信じる。そうであればそのような関係性を建築を使ってうまく構築すればよいのではないかと考えた。そこで僕は、自分の経験をもとに、どんな状態に身を置いた時、周囲との関係性の中でどんな心の状態になるかを分析することにした。窓がない部屋に身を置いた時、砂漠の真ん中に身を置いた時、縁側の空間に身を置いた時、森の中に身を置いた時、全く自分の知らない場所に身を置いた時、人が多くいる時、いない時…。ひとつひとつ条件を変えていきながら、心に影響してくる条件や要素を分析していった。その条件から患者同士の関係性、自然との関係性、場所との関係性に落とし込み、吹き抜けと中庭を用いて、光や風や緑を感じながら、他の患者さんがリハビリを頑張っている姿を見て自分も頑張れる気持ちになれる空間を作り上げたのだ。竣工後、設計者である僕が横にいることに気づかず、中庭で「なんかよくわからないけどこの場所気持ちいいな」と漏らしたスタッフの言葉が何より嬉しかった。「心の財」を育む建築。「心の財」を育むデザイン。その可能性を少し示すことができた気がした。「生きられた建築」。まだ答えは見えないけれど、人々の心の豊かさを育む建築を創っていきたいと思う。

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